I N T E R V I E W : T A K U M I N A G A I

協力:一般社団法人そっか 編集:Voyager’s Voice 企画・制作:Shonan Outrigger Canoe Club Corp.

学生時代にライフセービングと出会って以来、海を中心としたさまざまな活動に従事してきた永井巧さん。現在は、逗子海岸で子ども向けの放課後活動を中心とした一般社団法人を立ち上げ、毎日子ども達と一緒に元気に海で遊びながら、彼らの未来を考えています。

永井 巧 TAKUMI NAGAI

1971年、東京都出身。幼少期をブラジルで過ごし、大学時代に始めたライフセービングを皮切りに、アウトリガーカヌークラブ代表やpatagonia勤務などを経て、2016年に神奈川県逗子市で一般社団法人そっか設立。現在、共同代表として海やアウトドアスポーツを軸とした地域コミュニティづくりに携わっている

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逗子のビーチを中心にした
子どもと大人と一緒に作り上げる
地域のコミュニティを12年前にスタートさせた。

──永井さんが現在、共同代表を務める一般社団法人「そっか」について教えてください。

ひとことで言えば、逗子海岸を中心に、子どもと大人と一緒に遊びと暮らしを作る地域コミュニティです。子ども達の行動範囲って、広くはないですよね。保育園や幼稚園、小学校が終わっても遊びに行く場所が限られている。でも私たちが暮らす逗子には、海があって、山も川もある。そうした地元の自然のなかでいろいろな冒険をしながら、遊び場を広げたいという活動です。

──具体的にはどんな活動になりますか。

活動は大きく分けて4つあり、まずは「黒門とびうおクラブ」。これは小学生を対象とした放課後の自然遊びのクラブで、月曜から金曜まで毎日活動しています。また、未就学児のために認可外保育「うみのこ」。これは海と森が園庭です。そして、中学生から大人を対象にしたライフセービングやアウトリガーカヌー、素潜り、トレイルランニングといったアウトドアスポーツに関わるもの。ほかにもワカメを育てたり、近くの山で養蜂家さんとの協働や、廃棄されてしまう野菜の配給場など、食に関わる活動もあります。

──名称の「そっか」とはどういう意味ですか。

「足の下(そくか)」という意味なんですが、「あ、そっか(そうか)」という気づきの意味も込められています。まずは自分達が暮らしている足元の自然から始まって、暮らしや身の回りと自然との関わりを発見していく。食べ物も水もエネルギーも、私たちの暮らしはすべて自然との関わり合いのなかで成り立っていることを、一緒に学んでいきたいという思いを込めています。

──参加者はどのくらいの数になりますか。

全体では2歳から大人まで400〜500人ほどの人が関わっています。たとえば「黒門とびうおクラブ」の会員は小学1年生から6年生まで160人ほどで、1回あたり30人前後が参加しています。4月から10月まではライフセービングやサーフィン、磯遊びなど海に入る活動中心で、11月から3月までは浜で遊んだり、トレイルランニング、焚き火、釣りなどビーチや山での遊びが中心になります。

たとえば、冬の活動のひとつにロゲイニングがあります。オリエンテーリングに似たアクティビティで、いくつかのグループに分かれ、各グループに大人がひとり付いて、地図とコンパスを持って山の中を歩き回るという活動です。また、天気が悪い日には逗子アリーナという体育館を使っていたのですが、コロナ禍になってからこの2年間はほとんど室内は使えないので、中止にしたり週末に振り替えたりすることもあります。

──逗子以外からでも参加できるのですか。

基本的には逗子市や葉山町の一部にお住まいのご家族になります。毎日の放課後の活動がベースになるので、家が近くにないと参加が難しいのです。

逗子は町が大きくも小さくもない適度なサイズで、海も近くて、波もおだやか。海や自然が好きな方が少なくありませんし、海辺の暮らしを求めて移り住んでくる方も多い。また「うみのこ」と同じように、自然のなかで遊ばせる幼稚園や保育園も多く、自主保育も盛んです。

そうした土地柄なので、漁師さんや海水浴場の関係者、SUPやウインドサーフィンなどマリンスポーツ事業者同士のコミュニケーションもうまくいっていて、私たちの活動にも理解をいただき、非常に助かっています。

海で元気に遊べる環境が整っていて
それを見守る地域社会がある
では自分には何ができるのだろうか・・・

──永井さんは、どうしてこの活動を立ち上げたのですか。

学生時代にライフセービングやサーフィンと出会い、それ以来、海に関わる仕事にいくつも携わってきました。住まいも都内から藤沢市の鵠沼海岸、横須賀市の秋谷と海辺の町を転々とし、結婚して逗子に移り住み、子供もできました。そのときにクラブ形式で子ども達を海で遊ばせる活動を模索し始めました。

自分に子どもができるまでは意識したことがなかったのですが、海外のビーチタウンに行くと、子ども達がすごく楽しそうに海で遊んでいるじゃないですか。美しい海で元気に遊べる環境が整っていて、それを見守る地域社会があるんですよね。

たとえば、ハワイのサーフコミュニティは波の上での子ども優先を徹底しているし、オーストラリアでは、子ども達が海の経験を積む役割をライフセービングクラブが担っている。それじゃあ、自分に何ができるのかなと考えたときに、子ども達と一緒に海で遊ぶクラブ活動ならできるかなと。それが「黒門とびうおクラブ」を作ろうと思ったきっかけです。

──なるほど。

活動をはじめるには場所が必要だったんですが、逗子海岸に面した「黒門カルチャーくらぶ」の協力を得ました。もともと新潟の豪農の別荘だった邸宅で、そこを維持管理して活性化させるための財団法人が、地域の青少年育成を柱に掲げていたんです。そこで「黒門とびうおクラブ」として活動することになりました。それが2009年。最初は知り合いからお預かりした子どもたち8人からのスタートでした。

一般社団法人にしたのは2016年です。ボクを含めて4人の共同代表で設立しました。子どもを同じ幼稚園に通わせていた父兄が中心でした。小野寺愛さんは国際交流NGOのピースボートで世界を9周した人ですし、八幡暁さんは著名なシーカヤッカー。そうした長く海で活動してきた人たちが、たまたまパパ友ママ友にいて、もう一人が僕らの共通の友人でもあった内野加奈子さんでした。この4人で、より広い世代に向けた活動にしていこうと話が盛り上がったのが法人化のきっかけです。

──それはまさにビーチタウン逗子らしい出会いですね。

その通りですね。自分だけでは限界がありますし、何かをやるにも得手不得手だってある。いや不得手だらけかな。なので、海や地域の仲間たちと出会い、彼らと協力し合ってやることに大きな意味がありました。

ボクはライフセービングの活動やサーフィン大会のウォーターパトロール、湘南アウトリガーカヌークラブの立ち上げから代表などの活動を続けつつ、アウトドアウエアのpatagoniaや、BEACH葉山アウトドアフィットネスクラブで働いてきたことで、海関係のネットワークを広げさせてもらってきました。そうした多くの方に協力してもらって、今の活動があると思います。

放課後の夕方の逗子海岸には春~秋の海は子どもたちでにぎわう

午前中は海で溺れ、午後はプールに落ちた
1日に2回も水に溺れた子ども時代のトラウマが
沖まで泳いで一変した

──永井さんと海との出会いを教えてください。

茨城の病院で生まれて東京で育ち、3歳からブラジルのサンパウロに行き、日本に帰国したのは小学校1年生の年の瀬です。ブラジル時代に初めてリオデジャネイロの海に行き、そこで波に巻かれていきなり溺れたんですよ。もう海はいやだ、水は怖いと思って、午後はホテルのプールにいたんですが、玩具を取ろうとした拍子に頭からプールに落ちました。午前中に海で溺れ、午後にはプールで溺れるという散々な1日です。それからは海嫌いの水嫌い。風呂に入るのさえ怖かったし、顔を洗うのもイヤ。完全にトラウマでした。

──海嫌いだった人が海で生きていくようになるとは。

海嫌いがガラッと変わったのは、高校時代の夏の臨海学校でした。ボクが通っていた都立高校では、臨海学校の恒例行事に遠泳があったんです。昔ながらの赤フンを締めさせられての遠泳です。もちろん、ボクは海はイヤだし、泳ぐのも大っ嫌い。でも成長の過程でごまかしながらも、なんとか最低限は泳げるようになっていました。そこでも毎日泳がされたのですが、そんなある日、沖まで泳ぎ出たときに、なぜか不思議と怖さを忘れ、海のなかで気持ちよくなった瞬間があったんです。

──沖に出て、海の広さを感じたということでしょうか。

どうなんでしょうか。おそらく、周囲の同級生と一緒に合わせて泳ぐことで、海のなかでひとつになった感覚があって、それを受け入れたのでしょう。今のアウトリガーカヌーを漕ぐ魅力と繋がる部分ですかね。そのときから不思議と海が怖くなくなり、逆にできるだけ海にいたいと思うようになっていました。イヤだった臨海学校が終わるのも惜しくてね。それが高校1年生、16歳の夏休みでした。

あれだけ海を嫌がっていたのに、大学に進学してからは、海に関わりたくてライフセービングを始めました。藤沢の西浜ライフセービングクラブといって、片瀬西浜と鵠沼海岸で活動しているクラブです。そこに大学1年から入部して海と関わり始めました。

──その頃から湘南に?

いいえ、大学が都内だったので門前仲町に住んで、時間があれば湘南に通って友人のアパートに泊まりながら海でトレーニングし、海水浴場開設期間中はライフセービングクラブで合宿生活です。サーフィンを始めたのもその頃です。そうやって経験をひとつずつ重ねて海の世界を広げていった感じです。

そんなある日、内戦のあったソマリアでボランティアとして3カ月ほどを過ごしました。日本に住んでいるアメリカ人の宣教師が、大学生にも広い世界を見せたという目的でボランティアを募っていたんです。ボクはこれも自分にとってのライフセービングのひとつだと思い、あまり深くも考えずに行ったんです。そこで難民キャンプの食料手配や物資の整理などをしました。

あるとき、海辺の町に移って活動していたときに、ソマリアの子どもたちと海で一緒に遊ぶ経験をしたんです。アフリカの砂漠で暮らす人たちは海で泳がないし、海のものは食べないと言われていましたが、ボクが海に入って泳いだり、ボディサーフィンをしたりして遊んでいると、それを真似して子どもたちが海に入ってきたんです。子ども達は、どこの国でも海で遊べば楽しいんだよなって。

実は、海で子ども達と一緒に遊ぶ活動の原点は、このときのソマリアの経験にありました。砂漠の海がきっかけだったんです。

──ソマリアから帰国後は何か変化がありましたか。

国連軍の名のもとに、米軍を中心とした多国籍軍がソマリアで平和を維持しているという現実を前にして、なんだか世界の縮図に思えたんです。ケンカはよせと言いながら、銃を突きつけている現実に大きな違和感を覚えました。それまでは、アメリカの文化に憧れて、カッコいいと思っていたのに、これが現実かよ。世の中ってこんなもんなのかよと完全に幻滅しました。

大学を卒業して社会に出ることに抵抗感を覚えるようになりました。そんなときに、海だけが、自分にとって何も気にせずにいられる場所だったんです。だったら、海にどっぷり浸かるような仕事がしたいなと思って、出会ったのがフランス領ポリネシア、つまりタヒチのトゥアモトゥ諸島での黒真珠の養殖の仕事でした。

──えっ、大学卒業後にタヒチで真珠の養殖ですか!

そうなんです。真珠の養殖って、日本から生まれた技術なんです。そこで、日本の技術者が世界各地に赴任して、技術を教えながら養殖事業を行っている。ボクが入社したのも、そんな現地の会社です。もちろん技術はまるっきりで、真珠にも興味はなかった。でも、これなら文字通り、海にどっぷり浸かった生活ができるなと。

──言葉はできたんですか?

住んでいるのは町のなかではなく海の目の前でしたし、40~50人くらいの働き手がいるなかで、ボクは15人ほどの日本人の共同生活のなかにいたので不自由はありません。真ん中にラグーンという内海があって、まわりにネックレス状にポツポツと島が取り巻いている。そんな環境に2年ほど働いた後に帰国しました。テレビもないし、当時ネット環境も当然ない。日本に電話をかければ、5秒くらいの時差があって話にならない。そんな環境で暮らしていてホームシックになってしまったんです。

歳を取ったらそういう静かな生活のほうがいいと、今なら思えるんですが、当時はまだ大学出たての20代前半です。このままタヒチで暮らしていくイメージは持てませんでした。その時点で、自分は日本の社会に出ることを避けてきたのだとようやく気づくわけです。

本格的にアウトリガーカヌーに出会うのは
大学卒業後に就職したタヒチの会社時代ではなく
日本に帰国してからだった

──ところでタヒチではアウトリガーカヌーに乗りましたか。

最初にアウトリガーカヌーに乗ったのは、学生時代にライフセービングのトレーニングで行ったオーストラリアでした。6人乗りに乗せてもらったんですが、特にピンと来てなかったと思います。

タヒチでは、島のなかの移動に一人乗りのV1を普通に漕いでましたよ。そのときは「ヴァア」とか「アウトリガーカヌー」といった意識はなく、「ピローグ(pirogue)」とも呼ばれていましたし、普通に散歩の道具としての乗り物くらいの感覚でした。印象的だったのは、真珠の養殖の仕事をしながらラジオから流れていたカヌーレース中継です。まるでラジオの競馬中継のように、どんどんボルテージが上がっていく、すごい実況中継でした。これなにやってるの? と聞くと「カヌーレースだ」って言うんですよ。この盛り上がりはなんなんだって思ったのをよく覚えています。

──タヒチではカヌーに魅力を感じなかったんですか。

いえいえ。やはり漕いでいて楽しかったし、ごく自然にいい気持ちにさせてくれました。ただ、このカヌーが特別なものだとは、そのときは思ってはいかなったということですね。

──では、本格的にアウトリガーカヌーに取り組んだのは?

タヒチから日本に戻ってきて、1999年に荒木汰久治君たちライフセービングをやっていた友人達がモロカイホエに初めて出場したんです。その後、日本でもアウトリガーカヌークラブを作りたいから、一緒にやらないかと誘われたんです。それはもう願ってもないということで合流させてもらいました。それが2000年の春、葉山大浜でアウトリガーカヌークラブジャパンとしてスタートしました。

──日本で最初のアウトリガーカヌークラブですね。

はい。運営から手伝わせてもらったので、週末になるとカヌーを漕いで、20代の現役ライフセーバーやライフセーバー経験者が大半でしたね。それからはカヌーとの付き合いは続いています。

──湘南アウトリガーカヌークラブの初代代表も務められたとか。

もともと葉山で漕いでいたクラブメンバーのなかで、江の島方面に住んでいたメンバーも多かったので、江の島のほうにカヌーを置ける場所があるといいよね、という話になり、漁港に話をしていただいて、許可をいただきながら江の島の西浦にカヌーを置かせていただけるようになったんです。立ち上げは35人。会社員の方が多かったので、たぶん、ボクが一番ヒマそうだったので代表に押し上げられたんだと思います。使われなくなった漁港の、ゴミだらけ草ぼうぼうの浜をビーチクリーンして、少しずつ周りの理解を得ながら、自分たちの場所に責任を持つ。そういうことを経験させてもらった、すごく大事な時期でした。

──「そっか」では、どうアウトリガーカヌーに取り組んでいるんですか。

今は6人乗りが1艇と、二人乗りが2艇で、「そっか」と連動しながら活動しています。僕らのやり方は子どもを自由に活動させたいという考えが基本にあります。カヌーに乗せてあげるのは簡単なんですが、一方で、カヌーは大きくて重くて繊細じゃないですか。以前はけっこうカヌーに乗せていたんですが、やはり、子どもたちだけで自主的に活動するのは難しいんですね。今は「黒門とびおうクラブ」のなかで、小学校5、6年生になったら参加できる「子どもカヌー部」という形で活動しています。

カヌーをやりたい人はぜひやろう。だけど、約束事はあるよと。カヌーを体験したいならこういうことが必要だよと伝えて、そこに納得できた子が参加するというやり方です。カヌーで沖に出るから、泳げるようになっておこうとか、あとは、みんなで息を合わせて漕ぐから、自分勝手じゃだめなんだよなとか……。そうしたことを子ども自身が気づいてくれたらいいなという考え方です。

その後も中学・高校生になっても、やりたい人は続けられるようになっています。今は5、6年生で20人、中学・高校生になって続けている子は12人います。

コロナ禍で海に向き合う時間を得て、たくましくなった中学生パドラー

──大人のアウトリガーカヌークラブはやらないんですか?

逗子にはすでにオハナホエというアウトリガーカヌークラブがあります。また、子ども達のお母さんたちが自主的に運営して楽しんでいるクラブはありますが、ウチはあくまで子ども中心にやっているので、アウトリガーカヌークラブという形ではやっていません。今、相模湾には茅ヶ崎から葉山まで、ほぼ海岸線ごとにカヌークラブがあるじゃないですか。逗子にもあるわけだから、僕らがそこをやらなくてもいいかなと思っています。

お母さんパドラー達はリギングとリペアはお手のもの

自分と人、自分と社会
それを結びつけてくれたのが海
その思いを子どもたちにつなげたい

──逗子で活動を始めて何年になりますか。

最初に「黒門とびおうクラブ」を初めてから12年、一般社団法人「そっか」になってからは6年です。若い頃は期待に応えられなかったり、力不足だったことも多くありますが、良くも悪くも自分という人間を理解いただいてきたのだと思います。自分が言い出しっぺで始めたことですし、自分も周りを理解しているし、周りも自分を理解してくれている。それが12年続いている理由だと思います。

──これから先にやりたいことは?

やってみたいこと、いろいろとあります。今、子ども達と楽しんでいる海から山を横断的につないでいくようなことを探求したいです。たとえば、一昨年の秋には、プロスキーヤーで登山家の三浦豪太さんと共同で「ZU SEA TO MOUNTAINS」というプロジェクトを実施しました。逗子から小田原までカヌーで海を渡って、そこから陸路を歩いて、富士山登頂を目指すというもの。小学校5年生から高校生まで20人が参加しました。ただ、一昨年はコロナ禍で富士山がクローズだったので、麓まで。昨年はいよいよと思ったら、天候が荒れて中止でした。

──なかなか意欲的なプロジェクトですね。

子どもには多様な実体験と、自由や挑戦の機会を奪わない。そこがテーマですからね。身の回りにある海と自然のなかで、さまざまなアウトドアスポーツを通して子ども達の世界を広げていく活動、はいろんな意味でまだまだ可能性はあると思っています。

──水に溺れて、海なんて懲り懲りだと思った人間が、海で仕事を続けている。

ホントですよね。海にいれば十分幸せというか、満ち足りた気分になります。でもまあ、ボクは単に海が好きなだけじゃなくて、海と人と、両方の関わり合いがあるからこそ、充足感を得ているのだと思います。サーフィンをしたり、SUPやV1を漕いだりして、自分ひとりで海を楽しむ時間はとても大事です。ぐっと引いてみると、やはり自分と人、自分と社会を結びつけてくれたのが、海だったんだなと思います。

協力:一般社団法人そっか 編集:Voyager’s Voice 企画・制作:Shonan Outrigger Canoe Club Corp.