I N T E R V I E W : H I D E Y U K I F U K U I

協力:Paddle Factory  編集:Voyager’s Voice  企画・制作:Shonan Outrigger Canoe Club Corp.

沖縄でオールハンドメイドのパドルを製作している福井英之さんは、多忙な日々を送りながらも、毎日海に出てアウトリガーカヌーを漕いでいます。福井さんにとって、沖縄の海を漕ぐことは日々の生活の一部であり、同時に精緻なパドルづくりに欠かせない大事なピースだと言います。はたしてどんなきっかっけで、なにが福井さんの気持ちを動かしたのか。お話をうかがいました。

福井 英之  HIDEYUKI FUKUI

1967年、神奈川県横浜市出身。国際武道大学時代にライフセービングと出会い世界大会などへ出場。30歳で初出場したモロカイレースではサーフスキーで日本人初の横断を達成。2007年に沖縄に移住し、本格的にアウトリガーカヌーに取り組む。2013年から宜野湾市でパドル製作を開始。「パドルファクトリー」代表

→パドル ファクトリーのHPはこちらから
https://www.paddlefactory.net/

木製に徹底してこだわり
すべて手作業で1本1本丁寧に仕上げる
それが福井さんのパドルづくり

──福井さんのパドルは木製にこだわっているのですか?

そうです。カーボン製のパドルは軽いのですが、硬いので、スプリントとか瞬発的な競技には合っていると思います。ただ、長い距離を長時間漕ぐアウトリガーカヌーの場合は、漕いだ感触がやわらかな木製のほうが相性がいいと私は思っています。

また、木を使うと、貼り合わせる木の種類を変えることによって、重さやバランスまですべて調整できます。軽い木や堅い木をうまく組み合わせることで、シャフトのしなり具合や、ブレードが水を掴む感触まで変えることができるのです。そうした幅の広がりがあるので、私は木にこだわっています。

──工芸品のような美しさもありますね。

そうなんです。デザイン性で比べてみても、カーボン製は基本的に黒一色でおもしろみもないのですが、木はその種類を変えることで色味を変えてデザインを工夫できますし、美しく仕上げることができます。高級感もあって部屋に飾っている方もいるほどです。

──コストはどちらが掛かるのですか?

材料費はカーボン製のほうが高くなりますが、作る工程は木製のほうがはるかに手間がかかります。

──福井さんのパドルはすべてハンドメイドなんですか?

完全にハンドメイドです。シャフトだけは昨年から石垣島の木工所さんに外注していますが、ほかはすべて自分ひとりで手がけています。木材を厳選して仕入れるところから始まり、薄くカットしてキレイにカンナをかけて、何種類かの木を貼り合わせてからシェイプして……と。すべて手作業です。

──1本作るのにどのくらいの時間が掛かるんですか?

入門用のパドルで3日くらい。エッジガードを付けたり、カーボンを貼るような上級モデルだと1週間くらい掛かります。

──それはたいへんな作業ですね。基本的に削って、接着して、磨いて、塗るという工程ですか?

そうですね。木も同時にすべての個所を貼れるわけではなく、まず、できたシャフトにブレードの角度を付けるための木を貼り、それを切り出してキレイな面を出して、それからブレード材を貼る、といったように、いくつもの工程があり、それを1本ずつ貼って削ってといった作業を繰り返していくので時間も日数も掛かります。

──接着剤や樹脂を乾かす時間も必要ですよね。

そうなんです。どうしても樹脂やファイバーを使いますので、固まるまでに半日くらいはかかります。なのでそうした作業は夜にやったほうが効率がいい。寝ている間に樹脂を乾かして、日中は別の作業を行う。そんな時間の使い方をしています。

──1日に何本くらい作れるんですか?

1日何本という計算が難しいんですけど、要は工程をずらしながら何本か同時進行しているので、そこが計算できないんです。月にならすと、がんばって20本から25本くらい。睡眠時間をだいぶ削って、マックス30本くらいが今の限度です。

──たとえば入門用と上級者用パドルは何がどう違うのですか?

入門用パドルはブレードが重くできています。それには理由があって、ブレードの重さがあるほうが水の中で安定して漕ぎやすいのです。逆にフォームが安定していない人が軽いブレードを使うと、水のなかでブレてしまったりして上手く漕げません。だから、入門用の重たいパドルを使ったほうがフォームづくりには適しているんです。だんだんフォームがしっかりしてきたら、そこから軽いパドルに換えていけばいいと思います。

──カヌーを始めた人は、どの段階でパドルを買ったほうがいいのですか?

人それぞれだと思いますが、初めての体験なら借りたパドルでもいいのですが、できるだけ早く、その人に合った長さのパドルで漕ぎ始めたほうがいいと思います。サイズの合わないパドルで漕ぐとフォームがおかしくなりますからね。

──自分の道具を持つことで気持ちのスイッチにもなりますよね。

やはり自分のパドルを持つことによって、漕ぐことへの思いも変わってきます。初心者の人でもマイパドルを持って行って漕ぐ人と、手ぶらで海に行って借りたパドルで漕ぐのでは、上達のスピードも変わってくると思うんです。自分の道具でなければ、いつまで経っても、やっていること自体が借り物になってしまいますからね。

──パドルの買い替えに適した時期はありますか?

あります。入門用から次のパドルに変える場合、通常1年ほど漕ぎ続けたなら十分替え時だと思います。漕ぐ回数や時間が多い方なら半年ぐらいでも良いかもしれません。なかなか上達の度合いというのは本人には分かりづらいかと思いますが、所属のクラブがあるなら、先輩や指導者に相談するのも良いでしょう。

通常は、上達に合わせて薄くて軽いパドルや、硬いパドルなどに変えていくことが多いですが、海のコンデションに合わせてパドルをチョイスするエキスパートもいます。例えば、風の強い時にはブレードが重めのパドルを使うことで、ブレードが風の影響を受けないようにします。またエキスパートパドラーでもブレードの重めのパドルが好きな人もいます。

あとは漕ぐ時の適度な「しなり」が特徴ですが、長く使っているとコシが抜けてくるんです。しなりがやわらかくなりすぎて、水を掴んだときに抜けてしまう。漕ぐ頻度によっては1、2年で買い換える人もいますし、だいたい5、6年同じパドルを使ったら、そろそろ換えどきですね。

趣味を突き詰めることで
仕事として取り組みたい
そう思って沖縄に移住した

──そもそもの話になりますが、海との出会いを教えてください。

大学生のときです。千葉県にある国際武道大学に在学していて、御宿や鴨川といったサーフポイントが近かったんです。サーフィンを始めて、3年生のときにライフセービングの資格を取得しました。ちょうど日本にライフセービングが入り始めた時代でした。好きな海で人を助けることができる。これはやり甲斐があるなということで、そこから海にハマっていった感じです。

──ご出身は?

生まれは神奈川県横浜市ですが、3歳からは船橋市に移り、それからは千葉県内です。それでも大学に入るまではサーフィンをすることもなく、海には夏の海水浴で遊びに行くくらいでしたね。

──アウトリガーカヌーとはどう出会ったんですか?

ライフセービングを通して、まずはサーフスキーです。それからは自艇を買ってひたすら漕いで練習して、という毎日でした。30歳のときにはモロカイ海峡横断レースにチャレンジして、サーフスキーで日本人初の横断ということで表彰されたんです。モロカイには2年続けて挑戦したのですが、大きな費用も掛かるし、相当時間も取られるので、その後は断念していますけどね。

そのときハワイで初めてアウトリガカヌーを見たんです。最初は、なんだろうこの遅い乗り物は? って思ったんです。サーフスキーよりスピードがないし、これでモロカイ海峡を渡れるの? って。それが今ではすっかりハマっているのだから不思議ですよねー。

──その頃、どんな仕事をされていたのですか?

20代後半からは小型船舶免許講習の講師をしていました。それまでは夏は海、冬はスキー学校でインストラクターをしていたのですが、ライフセービングの資格で船舶免許が必要になって講習を受けたんです。そのときに実技でスカウトされたんです。「冬は雪山に上がっているんだったら、夏はボート免許の先生をやらないか」と。ちょうどスキーで膝をケガしていたこともあって、フルシーズンのボート免許講師になったんです。

──沖縄に移住されたのはなぜですか?

「美々ビーチでライフガードをやらないか」と荒木汰久治くんに誘われたのがきっかけです。もともと荒木くんとはモロカイレースで知り合っていて、彼が葉山で立ち上げたアウトリガーカヌークラブに私も所属していたんです。

私に声を掛けてくれた頃は、荒木くんはすでに沖縄に移り住んでいて、糸満市にある美々ビーチという人工のビーチでライフガードの仕事をしていました。で、彼の所に遊びに行ったとき、「今、監視長がいないので来ないか、カヌーの製造の仕事もあるから」と誘ってくれたんです。

仕事と趣味をどうバランスさせるかと考えたときに、私には趣味を突き詰めて仕事として取り組むほうが向いていると考えました。街で暮らしていくくらいなら、自分の好きなモノ作りと、ライフガード資格を生かした海辺の生活をしたい。そう思って沖縄移住を決めました。それが2007年のことですから、それから14年になります。

沖縄独特の風土と豊かな自然
海を愛する伝統文化が
「パドルファクトリー」を育んだ

──仕事としてのパドルづくりはどう始まったのですか?

「パドルファクトリー」という名前で正式にスタートしたのは2013年からです。きっかけは、友人から「ハーリー用のパドルを作れないか」と頼まれたことです。沖縄はハワイやタヒチに引けを取らないほど舟のレースが伝統的に盛んな島です。「ハーリー」もそのひとつで、海神様に奉納する舟のレースです。「エーク」という沖縄伝統の櫂(かい)を使って大人数で漕ぐんですが、声を掛けてくれたその友人はハーリーチームのキャプテンだったんです。

──ハーリー用の櫂とカヌー用のパドルは似ているのですか?

ハーリー用の櫂は、伝統的な細長い形をしていて、「エーク」と言ってパドルとは全く違うものです。しかし近年では、カヌーパドルと同じものを使う大会も増えてきています。ハーリーで使うパドルとカヌー用のパドルで違いがあるとすれば、ブレードの角度くらいでしょうか。あとはパドル規定がないのでサイズや形はチームによって色々です。

伝統的なエークは1本の木から削り出したものなんですが、ハーリーの大会では折れることもあります。ハーリーで使われているパドルもシャフトが1本の木から削り出されているものが多く、やはり折れることがありますね。私が作っているパドルは、カヌー用でもハーリー用でも種類の違う木材を貼り合わせることで強度を出しています。

──それまでにパドルを作ったことがあったのですか?

いいえ。ただモノ作りは好きでしたし、サーフボードのリペアや、クルマの修理でパテ埋めして塗装したりしていたので、パドルを作るために必要な樹脂の取り扱いには慣れていました。だから、自分でも作れるのではないかと思ったんです。沖縄は島ですからモノが手に入りにくく、ないものは自分で作っちゃえという土地柄だったんです。そんな空気にも後押しされました。

──そこから本格的に?

少しずつですね。実はその頃は交通事故で腰を痛め、長いリハビリ期間からようやく復帰しようとしていたときでした。それまで館長を務めていたスポーツ関係の施設の仕事に戻ろうとしたときに、今度は会社自体の事情で私が復職する余地が失われていた。友人からパドルを作れないかと頼まれたのはそんな時期でした。そのうちに別のチームからも頼まれるようになって、少しずつパドルを作っていきました。

その後、2年間ほど観光関係のコンベンションビューローで働き、契約期間が完了したのを機に、これからはパドルづくりを本業にしようと決めたんです。あらためてどこかで雇っていただける年齢ではなかったですしね。やっていけるかどうかではなく、ここまで来たらやるのだと覚悟を決めたんです。もう後戻りはしないと。

──ハーリーチームのご友人のひと言が大きかったんですね。

彼が声を掛けてくれたことがきっかけでしたからね。自分が作った道具を使ってくれて、なおかつそのチームが勝って、みんながすごく喜んでいるのを目にしたことが、自分の大きな力になりました。それがこの仕事にやり甲斐を感じた瞬間でした。

──パドルづくりを本業としている人は、福井さんのほかにもいますか?

パドルを手作りされる方はいらっしゃいますが、これを本業として取り組んでいる人間は、おそらく日本では私一人だと周りからは聞いています。アメリカ本土やハワイやタヒチには有名なパドルブランドがいくつもありますが、手作り系の工房は私の友人がやっている「カイコーパドル」さんくらいで、あとは大手メーカーさんになっちゃうかな。以前はいくつかハンドメイドの工房があったんですよ。でもご本人がご高齢になられたのか、あるいは亡くなられたかで、最近はブランド自体が動かなくなっていますね。

──たとえばサーフボードシェイパーが仕事として成り立つのに、パドル工房が非常に限られるのはカヌー人口の関係でしょうか?

さあどうなんでしょうか。それは私にはわかりません。ただ私の場合は、ハーリーの盛んな沖縄で作リ始めたことが大きかった。ハーリーではチームでまとめて頼まれるので、1回のオーダーで10本になります。これが3チームから注文を受けると30本です。それに対してカヌーの場合は個人個人なので、せいぜい3人分をまとめて3本のオーダーという感じですからね。

──沖縄で立ち上げた工房という点に大きな意味があったんですね。

そうなんです。沖縄でなかったら、会社として成立しなかったのではないかと思います。私の「パドルファクトリー」が今あるのは、沖縄の独自の風土や、海を愛する人たち、自然への理解、そしてハーリーという伝統文化があるおかげだと思います。

──なるほど。

あと忘れてはいけないのは、設立当初から私のパドルづくりを応援してくれた方達の存在です。今でこそここまでの精度になりましたが、スタート当初はそうはいきませんでした。最初から安定したモノが作れたわけではありませんし、今から思えば、よく皆さん応援してくれたし、買って使ってくださったなと思います。

文句も言わずに使って、ひたすらフィードバックしていただいた。そういうふうにプラス方向に一緒に歩んでくれた人たちがいたんです。一所懸命販売して下さった方たち、買って使ってくださった方たち、そうしたみなさんの思いの結晶がこのパドルだと思っているんです。だから、日々感謝しかありません。それを忘れない人間でいたいといつも思っています。

自分で漕がなくなったら
絶対にいいパドルを作ることはできない
だからいつまでもパドラーでありたい

──パドルづくりが忙しすぎて、海に出る時間を確保するのが難しくありませんか?

正直に言いますと、それでもほぼ毎日海に出ています。自分で仕事の調整をして、行けるタイミングで漕ぎに出ています。私にとって、沖縄の海に出て漕ぐというのは日々の生活の一部であり、毎日ジョギングする方と同じ感覚なんです。それに沖縄の海はいつでも空いているので、人と密になる危険性もありませんしね。

──漕ぎに出る時間は決まっているんですか?

仕事の流れ次第です。ほんとうは毎日朝に漕ぐのがいいのかもしれませんが、そうもいかないので、仕事の状況と、海のコンディションや風向き次第といったところ。早朝から仕事しなきゃいけないのであれば夕方漕いだり、仕事先で時間が空きそうなら作業の後にカヌーを漕いでから帰ってきたりもします。クルマに一人乗りのカヌーさえ積んでおけば、フレキシブルに対応できますので。

──当然、パドルのテストも兼ねているわけですね。

そうです。ただ海を漕ぐだけではなくて、パドルのテストという意味合いも大きいです。漕ぎながらグリップやシャフトの握り具合、ブレードが水を捉える感触を確かめてみたり……。実はパドルを作っている最中も、頭のなかではパドルの構造や使い心地を考え続けていることが多く、それと同じですね。漕いでいる最中もずっとパドルづくりのことを考え続けているわけです。

──リアリティある話だと思います。

パドラーとして、いまだに速くなろうという気持ちがあるんですよ。そこは無くさないようにしています。もちろん、体力の限界はあるけれど、それをどう維持し、どう効率よく長く漕げるのかといつも考えます。そうやって自分で突き詰めながら、新しいノウハウや感覚でパドルを仕上げる。どこまでできるか。そこはいつも考えますね。

──海を漕ぐのは遊びだけど、仕事であり暮らしでもある、というわけですね。

そうなんです。だからこそパドルづくりは自分にとってベストな仕事だと思っています。逆にいえば、漕がなくなったら絶対にいいパドルは作れなくなると思っているんです。その意味でも、パドラーとしてもできるだけ高い位置にいられるよう心がけています。いつまでも強く、速いパドラーであるようにね。

──サーフボードやサーフスキーといろいろ乗ってきたなかで、なぜそれほどカヌーに惹かれたのでしょうか?

さあ、なぜでしょうね。でもサーフスキーに戻るかと言われれば、たぶんそれはない。最初にサーフスキーからカヌーに乗り換えたときは、横の浮きが邪魔だったんです。サーフスキーならダブルパドルだから自分でバランス取れるのに、カヌーは片側に浮きが付いているから漕ぎにくいし、ひっくり返らないようずっと片側に荷重しているから、片方のお尻だけが痛くなる。こんな乗り物イヤだって思っていたんですけど、でも、気がついたら、今ではずっと乗り続けたいと思っているから不思議ですよね。

──なるほど。

一人乗りのカヌーについては正直よくわかりませんが、乗っていて素直に楽しいんです。ダブルパドルは左右で同じ動きの繰り返しなんですが、シングルパドルは状況によって左右の漕ぎ方を変えたりして、自分で調整する楽しさがある。私はいろいろコントロールすることが好きなんだと思います。研究したり、突き詰めたり。そういうのが楽しくて、だから漕いでいるんじゃないかな。

──では六人乗りカヌーは?

六人乗りはみんなで力を合わせてひとつの舟を動かす魅力ですね。気持ちがバラバラだと舟がすごく遅いし、みんながひとつになると、今までバタバタしていたのに、急にスピードが上がって生き物のように動くんですよ。そういうのを実感しているせいか、みんなで力を合わせることの大事さを痛感しています。一人では生きていけない。カヌーもそうだし、人生もそう。

口に出さなくてもひとつになる感覚って、単に漕ぐ技術を上げるよりも難しいことじゃないですか。難しいんですが、それを突き詰めていける楽しさと喜び、気持ち良さ。そこの深い部分がおそらく、自分が惹かれている理由なのかなと思います。

──いくつまで漕げると思いますか?

今の仕事を成功させて、もっと事業を広げていきたいと考えています。そうして70歳くらいになったら会社は若い人たちに運営してもらって、毎日海に出て好きなようにカヌーを漕ぐ。「あのじいさんは会社を作った会長さんで、老後はカヌーを漕いで生きていくのが生き甲斐なんだから」と言われるような余生を送りたいんです。ま、80歳くらいまではゆっくり漕いでいける人生でありたいと思います。

協力:Paddle Factory  編集:Voyager’s Voice  企画・制作:Shonan Outrigger Canoe Club Corp.

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