I N T E R V I E W : K E N N Y K A N E K O

協力:Ocean Va’a Hayama  編集:Voyager’s Voice  企画・制作:Shonan Outrigger Canoe Club Corp.

ホクレアの来航に啓示を受けたディーク金子さんというレジェンドパドラーを父に持ち、カリフォルニアで暮らした10代の頃はサッカーアメリカユース代表で活躍。帰国してカヌーと再会後は、スタンドアップパドルボード(SUP)のプロアスリートとして世界を舞台に活躍しているケニー金子さん。昨年、父からカヌークラブの代表を譲り受け、カヌーの普及にも積極的に取り組んでいます。

ケニー 金子  KENNY KANEKO

1988年、東京都出身。7歳のときに家族でアメリカ・カリフォルニア州に移り住み、小学校6年からサッカーでアメリカユース代表に選ばれる。現在、葉山を拠点にSUP、一人乗りアウトリガーカヌーで世界トップ10を目指しているオーシャンアスリート。昨年、葉山一色にパドリングショップ「パドラー」を開店

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「アメリカで子育てがしたい」という父の強い思いで
7歳でカリフォルニアに家族で移り住み
サッカーとサーフィンの10年間を過ごした。

──子ども時代をアメリカで過ごしたそうですが、生まれは湘南ですか?

生まれは東京です。その後、3、4歳で茅ヶ崎に移り住んで、小学校3年生のときに家族でカリフォルニアに引っ越しました。オレンジカウンティのアーバインという町で、海まで15分という環境のなか、17歳までの約10年間をアメリカで暮らしました。

──なぜカリフォルニアに移住を?

アメリカに移り住む人って転勤や駐在といった仕事関係が多いと思うのですが、ウチの場合は、子育てをアメリカでしたい、という父(デューク金子さん)の強い意志でした。あまりよく覚えていないのですが、行くと決まったのも急でしたし、もちろんビザもなく、住む町も家も決めずにカリフォルニアに渡った感じです。

──何も決めずに渡米して、そこからどうなったのですか?

しばらくの間はホテル住まいでした。ちょうど感謝祭の期間でサッカー大会が開かれており、そこで優勝したのがアーバインという町のクラブチームでした。それで、「よし、あそこに住もう」となったようです。もともと僕も弟も小さい頃からサッカーをやっていたんです。Jリーグが開幕したのが僕が5歳のときで、そのヴェルディ対マリノス戦を観に行った帰り道で、僕は「プロサッカー選手になりたい」って言ったんです。その言葉が父を動かしたようです。

──なるほど、デュークさんなら十分に想像できますね。

父は熱い人間なので、やると決めたら後には引かない性格です。アメリカに移り住んでからは好きだったサーフィンも自分の趣味も抑えて、ずっと僕たち兄弟の練習の付き添いや送り迎えに専念していました。

そのとき父は32歳。ちょうど今の僕くらいの年齢のときに家族を連れてアメリカに渡り、自分の好きなことも我慢して、子どもたちのために身を削るような10年間を送った。それってなかなかできることじゃありませんよね。たぶん、パドルも10年近く握っていなかったと思いますよ。その反動かな? というくらい今は毎日漕いでいますけどね(笑)。

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──カヌーやサーフィンではなく、サッカーのためにアメリカに渡ったというわけですね?

メインはサッカーだったのですが、日本と違って、たとえば高校の部活は3ヵ月ごとにシーズンが変わるので、サッカーをやっていても2シーズンはほかのスポーツをやります。僕はクラブチームで代表に選ばれるほどサッカーをやっていたにも関わらず、水泳と水球にも取り組んでいました。また、朝練がないので朝は友達とサーフィンに行って、夜にサッカーの練習という毎日です。

──サーフィンはいつからやっていたのですか?

茅ヶ崎に住んでいる幼稚園の頃から父にやらされていて、正直、その頃は嫌いでした。波に巻かれるのもイヤだし、ぜんぜん楽しくなかった。それでもアメリカに引っ越す小3の頃には、もちろんテイクオフもできるし、横にも走れた。向こうの子どもたちって、だいたい小学生でスケートボードを始めて、中学生になると週末には海に行ってボディボードをするんですよ。その段階で周囲の子どもたちのなかでもけっこうできるほうだったので、自分でも楽しくなってくるじゃないですか。それで週末はもれなくサーフィンです。

家からビーチまではクルマで15分くらいかかるので、週末はハンティントンビーチにある親友の家に泊まってサーフィンして、月曜になると親友の父親に学校まで送ってもらうという生活でしたね。16歳になるとクルマの免許が取れるから、高1の終わりくらいからは毎日早朝にサーフィンやって、海から上がって学校に行き、夕方からサッカー。あの頃はメチャクチャ楽しかったですね。

サッカーではスタメンでキャプテン。
日本人ながらアメリカユース代表に選出され
世界の強豪チームからオファーを受けた

──さてサッカーの話に戻りますが、「クラブチームで代表に選ばれた」とはどういう意味ですか?

高2まではアンダー13から15のアメリカ代表にセレクションされていたんです。高校の部活より以前からクラブチームに入って活動していたのですが、僕がいたアーバインのチームは全米でもトップ3に入るくらいのチームでした。学年が入り交じる日本と違って年齢ごとにディビジョンの違うチームがあり、僕はそこで1年の頃からスタメンに選ばれ、ずっとキャプテンを務めていました。

──なんと、アメリカユース代表のキャプテンですか!

そうです。でも僕は日本国籍なので公式試合には出場できず、そのためアメリカサッカー連盟が帰化の手続きを進めてくれていたんです。そんなときに9.11のテロアタックで、帰化することが難しくなってしまった。それでアメリカ代表をあきらめて、日本でサッカーをしたいと。そこから東京ヴェルディのユース契約が急に決まって、日本に戻ってきたって感じです。

──なるほど。

14歳のときにクラブチームの世界大会にU-14アメリカ代表として出場したんです。各国から1位のチームだけを集めたNIKEの大会で、マンチェスターユナイテッドや世界のチームが集まっていて、日本からは東京ヴェルディが来ていました。そのときに「日本でやらないか」とヴェルディからオファーをいただいたんです。同時にマンチェスターユナイテッドやドイツのチームからもオファーがあったのですが、僕はそのときサーフィンに夢中で、「絶対にアメリカから出たくない」と言ってすべて断ったんですよ。

それから1年後くらいに前十字靱帯をケガをしてしまいます。それでもやはり自分にはサッカーしかないと思っていたので、復帰したときにまだオファーがあるならそこに行きたいと。それでヴェルディに連絡すると「ぜひ来てほしい」ということで、受け入れてもらったんです。そうやって日本に帰国したまでは良かったのですが、ヴェルディのユースでプレイしているうちにまた前十字靱帯をケガしてしまって、そこでサッカーの道を断念しました。

──もしも14歳のときに、マンチェスターユナイテッドなど世界の強豪チームからのオファーを受けていたら?

そう考えたことは何度もありますよ。でも、たとえ14歳で契約したとしても、トップチームまで上がれる確率は低いし、日本代表でやれるレベルになれたかどうかもわかりません。今現在の自分と、マンチェスターユナイテッドのスタメンでプレイしている人生を思い描いたときに、僕は今のほうが幸せだと胸を張って言えます。そういう意味では、あのときサッカーを挫折して良かったと思います。

帰国してから2度目のケガでサッカーに挫折し
大学に進んでも夜遊びを繰り返す毎日。
そんなときにカヌーと再会した。

──日本に帰国してからはどうなっていくのですか?

帰国したのが日本の高校3年生になるタイミングでした。やはり、日本語の読み書きができなかったので、横浜のインターナショナルスクールに入学しました。9月入学なんですが、その時点ですでにサッカーは断念していて、とりあえず大学入学を目指すことに。今まであまり勉強してこなかったけれど、サッカーと同じような感覚で一所懸命に勉強すれば、大学くらい入れるだろうと思っていました。それで半年間集中して受験勉強して、6月に卒業して国際基督教大学(ICU)に進学しました。

──サッカー同様、勉強にも集中力が発揮されたと。

そうですね。ただし、帰国子女枠だったので日本の受験とはちょっと違っていて、SAT(Scholastic Assessment Test)という試験のスコアと、あとは論文です。僕はサッカーを目指してきましたが、それを断念してからは国連で働きたいと思っていたんです。国籍や国境を超えて、世界をひとつにつなげる仕事をしたいと考えた。そんな情熱的な論文を書いたのですが、それが良かったのかもしれません。ICUを選んだのも、国連で働くには一番の近道だろうと思ったからです。

──大学時代にどうカヌーと出会ったんですか?

僕は高校まではサッカーに一所懸命でまったく遊ばなかったのですが、大学に入ったとたん、めちゃくちゃ遊びを覚えたんです。退学になってもおかしくないほど授業に背を向け、週4くらいで六本木に通って朝まで遊んで帰ってくる、という生活を続けていました。自分でも、なにをやっているんだろうって思いながらです。

かといって、もう一度サッカーをやろうと思っても嫌な気持ちになるばかり。ICUは土のグラウンドだったんです。アメリカではどこでも芝だったし、帰国後もヴェルディだったから施設も整っていたし、テーピングが必要だったらトレーナーが巻いてくれた。子どもの頃からそんな恵まれた環境でサッカーをやってきただけに、グラウンド整備から始まるサッカーというものにまったく馴染めなかったんです。やる気は起こらないし、そういう態度を取っていた自分にも嫌気がさしました。そんなときにカヌーと再会したんです。

──アメリカにいるときにカヌーは漕がなかったのですか?

僕が高校生になった頃、少し時間ができた父はニューポートビーチのカヌークラブでまた漕ぎ始めたんです。誘われて僕も行ったこともあるのですが、なんてつまらないんだろう、って思いましたね。そのときサーフィンに夢中だった僕のベクトルでは、漕ぐ喜びとか、みんなで漕ぐ楽しさに目を向けることができなかったし、40代や50代の人しかいないから、オジサンたちのスポーツに思えたんです。たぶん2、3回くらい行って乗ったんですが、何が楽しいのかわからず、もう二度と漕がないだろうって思っていました。

──それがまた、どんなきっかけで再びカヌーを漕ぐようになったのですか?

大学時代は都内で寮生活だったのですが、両親が茅ヶ崎に戻っていたので、家に帰ったときにはサーフィンをしていました。ただ、アメリカと日本のサーフィン文化が違いすぎた。アメリカのサーフィンはいい息抜きになったし最高に素晴らしい時間だったのですが、日本では波がなくてもいつも混んでいるし、ポイントの雰囲気もギスギスしている。サーフィンしていると息苦しくなるばかりでした。そんなときに親父から誘われたんです。「カヌーを漕がないか」って。

──なるほど。

それで茅ヶ崎から2人乗りのカヌーを出しました。ちょっと南風が吹いていたんですが、沖まで漕ぎ出して、帰りは風に押されてうねりに乗って帰ってきた。カヌーでダウンウインドっていうんですけどね。それが自分のなかですごく気持ちのいい時間だったんです。人と建物に囲まれた東京の暮らしはストレスフルだったけど、カヌーで2、3km沖に出れば誰もいない静かな世界が待っていた。そのとき「ああ、これ、やりたいかも」って強く思ったことを覚えています。

初めての大会以来すっかりカヌーに魅入られ
ハワイで本場のカヌーの世界に触れて以来
世界に通用するパドラーを目指そうと思った。

──本格的にカヌーを漕ぎ出すのはそれからですか?

その頃、葉山にある「BEACH葉山」というアウトドアフィットネスクラブで、父がカヌーのインストラクターを始めたんです。それで「暇しているんだったら遊びに来なよ」って誘われ、ICUの友達と3人で葉山まで漕ぎに行ったんです。それがまた楽しくてハマってしまい、「来月レースがあるから出てみない?」「じゃあ出てみようか」って。それから葉山に通って3週間くらい練習しました。

──都内から通ったんですか?

そのときは東京から葉山まで来てました。その大会、江の島で開かれた「湘南パドリングチャレンジ」に出た翌年からは茅ヶ崎に住んだので、毎週、友達と2人乗りのカヌーを漕いで茅ヶ崎から葉山に行って練習して、夕方、茅ヶ崎まで漕いで帰っていました。

──茅ヶ崎の家から葉山までカヌーで通った?

そうですね。クルマを持っていなかったので、毎週末カヌーで通いました。海が荒れた日は自転車です。でも、あれが良かったのかもしれないですね。その頃には僕もBEACH葉山でアルバイトを始めていたので、週末になるとカヌーで葉山までアルバイトに行き、カヌーで茅ヶ崎まで帰ってくるという生活。片道15kmほどですが、あの頃は2時間くらい掛けて漕いでいたと思います。

──大学時代もずっとカヌーを?

初めて大会に出たのが大学1年生が終わる6月頃だったんですが、もう楽しくて楽しくて。それで夏休みの終わりにはカヌーを漕ぎにハワイに行ったんです。そこでコナで行われたハワイで一番大きなカヌーフェスティバルに行って驚きました。今までオジサンたちのスポーツだと思っていたカヌーに20代の若い選手が大勢参加していて、みんな速くてムキムキですごくカッコ良かったんですよ。なんだ、すごくクールなスポーツだったんだ、って。

そこには世界的なパドラーも大勢来ていて、レース後にビールを飲みながら話す機会がありました。僕は英語も普通に話せたし、積極的に話しかけてみんなと仲良くなったんです。そこでカヌーの世界大会があることを知りました。サッカーで挫折したぶん、そのとき僕はカヌーで世界一になりたいと考えた。そこから本気でカヌーに打ち込むようになりました。もう大学もどうでもよかったし、卒業後も就職は考えず、毎年ハワイに行くお金だけ貯めて漕げる環境を確保して、世界に通用する選手になりたいと。

人並み以上に、僕は日本人としての誇りを得た。
だから日本をベースに世界で戦える
そんな選手になりたいと思った。

──それから20代からは毎年ハワイに通ってカヌーを漕ぐ日々?

そうですね。毎年4、5月にあるモロカイ to オアフの世界大会のために1年間練習して、1ヵ月くらい前にハワイに渡って、友人の家に泊まりながら大会に向けて練習するというのを毎年続けていました。

──その頃、どうやって生計を立てていたんですか?

最初はBEACH葉山のアルバイトでしたが、大学が都内だった関係で、20歳くらいからは東京・渋谷にあるパタゴニア・オーシャンという店でアルバイトしていました。大学卒業後はパタゴニアの契約社員になり、それからもずっとです。

それでも練習できる環境が優先だったので葉山に住み、毎朝5時半に起き出して海を漕ぎ、それから東京まで通って、夜は11時くらいに帰宅する。そんな生活を続けていました。冬は5時半といってもまだ暗いからヘッドライトを点けて漕ぎました。モロカイの大会が4月から5月で、それに合わせて練習するので真冬でも漕がなくちゃいけなかった。それが一番キツかったですね。

──ハワイに移り住んでカヌーに集中しようとは思わなかったんですか?

もちろん思いましたよ。でも、ひとつは国籍がなかったし、ビザを取って住むのが難しかった。もうひとつは、僕は日本に住みながら世界に通用するパドラーになりたいと思ったからです。ハワイに住んで通用するのは当たり前なんですよ。向こうの人と条件は一緒ですから。そうではなく、日本に住みながら世界で通用するパドラーになることに意義を感じたんです。

──それはどういうことでしょうか?

僕にはずっとコンプレックスがあったんです。日本にいると外人扱いされ、アメリカに行くと日本人じゃないですか。自分のアイデンティティはどこにあるんだろう、って。アメリカに住んでサッカーしているときは、日本人でもアメリカ代表だったし、チームにはいろいろな人種がいました。ほかにもアジア系の人がいたし、白人も黒人もメキシコ人もいる。だから人種や見た目の違いをまったく気にすることなくプレイできたんですよ。

それがハワイの海では違ったんです。初めてハワイに行ったときに「あ、日本から来たのね」って小馬鹿にされるように鼻で笑われたんですよ。あっちの人からすると「日本人=観光客」であり、パドラーとしてのリスペクトはゼロ。ビジネスとしてしか見てないから、日本からパドラーが来たとはまったく思ってくれないんです。それがすごく嫌だったんですね。

逆に日本にいると、その人がどんな人なのかは関係なく、体のデカい外国人というだけでリスペクトされちゃうじゃないですか。え? なんでなの? ってくらい、それも嫌だった。だから、日本をベースに世界で戦える選手になりたいと思いました。向こうに行っても「日本からすごいパドラーが来た」ってリスペクトしてもらえる存在になりたかったんです。

──サッカーでいえば、イタリアやスペインで「日本から来た助っ人選手」って言うと「なんの冗談だ?」って話と同じですね。

ほんとそんな感じです。僕は中田英寿が大好きなんですけど、彼がイタリアのチームに移籍したときも最初はみんなにバカにされた。そんな状況を彼はサッカーの実力で覆したんですね。僕はサッカーでそれを知っていたから、海でもそれしかないと思った。それって、いくらお金を払ったって買うことができないんです。漕げる人間じゃないと本当の仲間になることはできない。そういう世界です。

──アメリカと日本、ふたつの国と文化のなかで育った影響は大きかったんですね。

そうなんです。大学に入るときの僕が国連で働きたいと思ったのも、じつはそれが大きな理由です。国籍の関係ないノーボーダーの世界を見て、そのなかで育ってきた影響が大きかったのだと思います。

今思うと恥ずかしいのですが、長い間、自分はアメリカ人だと思って生きてきました。だからこそ、日本に帰国してから日本の良さを知り、日本にいる人たちよりも日本人としての誇りを感じるようになったのかもしれません。日本がどれだけ素晴らしい国なのかは、外からみたほうがよくわかる。それを日本人として証明したいという気持ちにこだわったのだと思います。

「出場する大会すべてで優勝するから」と
有言実行してSUPのプロアスリートになった。
以来、世界のトップ3入りを目指す毎日。

──ケニーさんの競技に対する高いモチベーションがよく理解できた気がします。

最近はだいぶ変化してきましたが、当初はそこが一番でしたね。世界でどれだけ通用するか。僕はスタンドアップパドルボード(SUP)レース競技にフルに取り組んでいるのですが、日本一になりたいと思ったことはないんです。自分のなかでは、そこにあまり意味を感じない。レースはあくまでも世界で戦うためであって、その過程で全日本でも優勝する、というイメージです。今はコロナで海外遠征がなくなりモチベーションが保ちにくいところですね。

──SUP競技はどんなきっかけで始めたんですか?

やはりカヌーを通じてです。僕がコナに行ったときに出会った今では親友となった友達がカヌーの選手で、サーフィンもできてカヌーも漕げて、SUPレースでも速いウォーターマン──本物のウォーターマンの人って自分のことはそうは言わないんですけど──だったんです。そんな彼がSUPレースで世界一になった。結局、立って漕いでもパドルスポーツですし、カヌーとの共通点も多い。それにプラスしてフットワークがあって、ボードスキルが必要なのがSUP。いずれも基本は漕ぐというスポーツです。

その頃は競技として成立してからまだ12年くらいだったと思うんですが、次第にレースが爆発的なブームになっていき、その彼と何人かがSUPのプロになっていった。カヌーにはプロがないから、ハワイでいくら速くてもプロにはなれないし、その目的で漕いでる人もいないんです。ところが、SUPにはプロへの道が開かれようとしていた。

──なるほどね。

「ケニーも始めたほうがいいよ」ってその友達が言うんですよ。「身長的に重心も低いし、サーフィンもできるし、ぜったいにケニーに向いてるよ」と。それで僕もSUPを始めて、プロを目指したって感じですね。

──プロになりたいと思った理由はなんですか?

これは海外でも日本でも同じなのですが、大人になってからも漕ぎ続けるってすごく難しいんです。就職して次第に仕事が忙しくなり、30歳を過ぎてようやく週末だけ海に戻ってくる。そういう人が多いんですね。でも、それってすごくもったいないと思うんですよ。僕はずっと漕ぎ続けてきたわけで、やはり一番漕げるのは20代の頃なんです。プロとして漕ぎ続けている先行例があれば、次世代の子どもたちにとっても世界が変わるだろうなと。それでSUPのプロになろうと思った理由です。

──たしかに。

理由はもうひとつあります。結婚して子どもができて、それでも漕ぎ続けるにはどうしたらいいかと考えたんです。もしも平日は勤めに出かけていて休みの日に漕ぎに行くとなると、家族としては「え、ちょっと待ってよ」ってなりますよね。でも、仕事で漕ぎに行くのだったらなにも言えないじゃないですか(笑)。ただし、教えることを仕事にしてしまうと自分の練習ができません。そう考えたときにSUPのプロが理に叶っていたんですね。

──ケニーさんがSUPのプロになろうとしたとき、日本人のプロはいたんですか?

フルタイムのプロは日本にいませんでした。競技の参加人口も少なかったです。僕が初めて全日本大会に出たときは、レース用のボードで出ている人は30人くらい。まだ日本に入っているレースボード自体も少なかったですから。でも、今はもう地方の大会でも200人超えが当たり前。ほんとに急成長しているんです。

──その状況化でどうやってプロになったのですか?

まずはパタゴニアを辞めました。本格的にやるんだったら仕事と並行してはできないと思ったからです。それから自分がここだと思った海外ブランドの代理店に連絡したんです。「出場する大会はすべて優勝するから、遠征費を出してほしい」と。まだSUPを漕ぎ始めて1年目でした。さらに「全部優勝できたら、翌年からは契約金を」と提案したら、それが通ったんです。まさか全部優勝してしまうとは思ってなかったんでしょうね。

それで僕は全日本を含めて出場した大会すべてに優勝して、翌年からほんのわずかですが契約金が出るようになり、その年からインターナショナルのライダー契約になり、海外の大会にも行けるようになった。それが2014年なので、今年で7シーズン目に入ります。

──すごいな。有言実行ぶりに驚かされます。

代理店の方はまったく信じていなかったはずですが、僕は誰よりも練習すれば優勝できると思っていました。漕ぐことに対して自信があったんですよ。学生の頃から毎週末に往復30km漕いでいたし、パドルのテクニックはカヌーで徹底的に追求してきましたからね。

──ケニーさんならではの漕ぎ方ってあるんですか?

これはSUPでもカヌーでも同じなんですが、外国人の真似をしても絶対に勝てないんです。そもそもの骨格や体のつくりが違うから。そこで僕は武道や相撲をよく研究しています。体の使い方とか、昔のサムライがどう刀を振ったかとか。そういうのを勉強しながら自分の漕ぎを作り上げていくという感じです。

──たとえば体幹の使い方などでしょうか?

丹田(ヘソの下あたり)の使い方や重心の置き方といった感じで、漕ぐときに上半身だけで漕がないようにします。また、パワーでは外国人と戦えません。ではどうするかというと、骨格をいかに上手く使うか。これはお世話になっている整体の先生と一緒に作り上げてきたんですが、彼はつねづね言うんですよ。「エンジンを大きくしても、骨格が違うから意味がない」と。ムスタングのエンジンをプリウスに乗せたら、速く走るどころか、おそらくプリウスのフレームは壊れますよね。それと同じで、パワーアップのために筋肉を大きくすることを目指すと、ケガのリスクが高まるだけです。

目指すのはゼロ戦。エンジンは小さいのに速くて小回りが効くから、どんな大きなエンジンの戦闘機とも戦える。そういう選手を目指すのが自分のなかですごく重要で、それが日本人の良さを出して勝つ方法だと思います。

──野球のイチローも同じような話をしていますね。

僕はイチローも大好きですね。

──ところで、フルタイムで生活しているSUPのプロって、ほかに何人くらいいるんですか?

日本人ではほかにいないですね。世界でも15人くらいでしょうか。

──そのなかで、ケニーさんのポジションはどのあたりですか?

SUPの世界大会での優勝はまだありませんが、SUPのモロカイtoオアフのレースで、2019年に3位入賞したことがあります。トップ3をキープとはいえないのですが、どんどん近づいている感覚はあります。カヌーはけっこう突き詰めたのですが、SUPを漕いでいるとまだ下手だなと感じますね。SUPは道具も技術もどんどん進化しています。そのなかで、まだ自分の伸び代を感じているところです。

SUPレースで高成績を挙げることは
海に無縁の世の中への発信力を高め
パドルスポーツの普及につながるという考え。

──ご自身のなかでカヌーとSUPはどう両立させていますか?

両方とも大好きです。カヌーを漕ぐのも好きだし、SUPを漕ぐのも好き。今年は大会が少ないので海に出ている時間は半々くらいです。ただ、SUPは純粋に競技スポーツとして追求していますし、カヌーはコミュニティや仲間との時間という面が大きいです。

そのなかでSUP競技では大会には勝ちたいし、技術も延ばしたいのですが、一番はリスペクトされる選手になりたい。競技で速い人はたくさんいますが、リスペクトされる人ってごく一部だと思うんですよ。僕はそういう人になりたいと思っています。それは自分が望んだからといって獲得できるものではないし、速さだけじゃなく、振る舞い方だったり人間性も大事だと思うんです。

自分は今32歳ですが、いずれ勝てなくなったときに「自分はダメかも」と苦しくなると思うんです。そんなときでも、仲間からのリスペクトがあれば劣等感にさいなまれることもない。そこを目指していきたいし、それを次世代にも伝えたいと思いますね。

──なるほど。

あとはSUP競技を続けることで、パドルスポーツの普及のために働きかけたいという思いは強いです。僕が初めて茅ヶ崎の沖までカヌーを漕いで感動したときのように、たぶん海を必要としている人は少なくないと思うんです。都会で日々の仕事と生活に追われた人が、パドルを漕いで沖に出て、海の広さや自然に包まれる空気感に浸る時間があると救われると思うんですよ。だからSUPでもアウトリガーカヌーでもいいので、海に出ることが当たり前になるよう発信していきたいです。

──SUP競技で活躍することは発信力を高めますよね?

そうです。発言力を得られたことが一番大きい。SUP関連とは違った企業がスポンサードしてくれたり、イベントに呼んでくれるようになりました。そうなると、これまで海とあまり縁のなかった大勢の方々が耳を傾けてくれるじゃないですか。最近では、そのために漕いでいるといってもいいかもしれませんね。

この先の目標は、まずは良い父親であること。
そして漕ぎ続けることでコミュニティに貢献したい。
それが僕のできる恩返しだと思っている。

──こうして話を伺ってくると、父親であるデューク金子さんのストーリーとのリンクは意外に少ないんですね。

そうですね。僕の人生のなかで父は要所で大事な役割を担っていますが、ただどちらかと言うと僕は競技志向でしたし、漕ぎ方を教わったのも本当に最初だけで、ほぼすべてが独学だったり、ハワイの人たちから教わった感じです。ただし、最近は自分も年を重ねて経験も積んできたことで、ようやく父の思いや、日々行ってることの意味がよくわかるようになってきました。

──葉山のアウトリガーカヌークラブ「オーシャン ヴァア」の代表を昨年デュークさんから引き継いだのもその一環ですか?

一番はパドルスポーツの普及のためですね。ひとつはこのコロナ渦で僕が日本にいる時間が増えたことと、もうひとつはSUPをやっている人たちに対する僕の発信力を生かして、もっと広い層の人たちに体験してもらおうと思って代表を引き継ぎました。

そのなかで父の思いや考え方はすごく大切で、その軸がないとウチのクラブは絶対に成り立たないと思うんですよ。逆にそれがあるから、みんな漕ぐことを純粋に楽しめている。父がクラブの目指すところを作ってくれて、僕はそのなかで気軽に漕げる環境をつくって、どんどん人を増やすことに尽力する。それが僕の役割かなと思っています。

──カヌークラブの良さって何でしょうか?

父は「陸で起きたことはすべて忘れて、海に出よう」と言いますが、そういうことを求めている人は少なくないと思うんです。また、ウチのクラブでは長い距離を漕ぐことを重視していて、遠い島までみんなで漕ぐことを目標にしています。それが楽しいんですよ。レースで優勝の快感を味わえるのはたったひとりですが、どこかを目指してみんなで力を合わせて漕いだときの達成感は、みんなで等しく分かち合える。それはほかでは得られない喜びです。

──ご自身が若い頃に感じた「カヌーはオジサンたちのスポーツ」、そこはどう考えますか?

重要になってくるのは子どもたちや若い人たちを増やすことだと思います。ウチのクラブでは今までキッズプログラムもないに等しかったんですが、昨年からは子ども達がものすごく増えています。そこを強化する必要があるので、どちらかというと僕はそこに力を入れていきたいと思っています。

──具体的にはどのようなことをやりますか?

いろいろな環境の海で漕ぐことで、海を感じられる子どもになることをクラブでは大事にしています。感じられるか感じられないかは、子どものときにやるかどうかなんですよ。ハワイの人たちがなぜ速いかというと自然が近いからです。子どもの頃からサーフィンしたり海で過ごしてきたから。だから荒れた海でも自然と調和できるのです。

僕が海外で通用する一番の理由は、大嫌いだった子どもの頃からサーフィンをやらされていたおかげだと思うんです。せっかく海もあって山もある環境があるので、多くの子ども達に海を感じてほしいなって思います。ただ競技として取り組むのではなく、海を感じられるようになれば、たとえ小学生でカヌーをやめたとしても、いつか海に戻ってこられるじゃないですか。

──ケニーさんのご家族もカヌーを漕ぎますか?

3歳と1歳の娘がいるんですが、上の子は1歳くらいから一緒にカヌーに乗ってます。妻はまったくやらなかったのですが、最近2人乗りのカヌーを買ってからは、家族4人で少し漕いだりもしています。僕は比較的家にいる時間が多くていつも家族と一緒にいるのですが、やはり家族で一緒に海に出ると楽しいですよね。

──最後にケニーさんにとっての、これから先の中長期的なビジョンを教えてください。

一番は良い父親でありたいと思っています。そのためにはSUP競技にしっかり取り組み、子ども達が活動しやすいカヌークラブを作り上げなくてはいけない。パドリングって引退がないんですよ。ウチの父を見てもおわかりいただけるとおり、本当の生涯スポーツなんです。おそらく僕も10年後も20年後も漕いでいると思うし、漕ぐ仲間を増やしていると思います。

では、それに対して僕はどう恩返しができるかというと、漕ぐ環境を豊かなものにすること。カヌーでもSUPでもいいのですが、このパドルスポーツのコミュニティが豊かになるよう貢献したいと考えています。

協力:Ocean Va’a Hayama  編集:Voyager’s Voice  企画・制作:Shonan Outrigger Canoe Club Corp.

葉山Ocean Va’a オーシャンヴァア